確か、ある薄曇りの日だったと記憶している。但し、私達の住むロンドンという街に於いて、それに当たる日は一年の中でとても多い。その、とても多くてとても覚えていられない薄曇りの日の中の、ある一日の話だ。日付なんて覚えてはいないが、残酷にも私はブログなんていうものを(自らの意思とは裏腹に)つけているので、非常に残念ではあるが、あれが2月26日の、厳しい寒さが一瞬戻ってきた、そんな薄曇りの日だったと思い出すことができる。26日のブログにこの事を載せた訳ではない。只、その前日25日に私はブログを書いているのだ。些細な記事なので何度か消してしまおうとも思ったが、コメントも幾つかついていて、消すのを躊躇われてそのままにしている。26日の話の前に、25日にアップロードした記事の事を少し話そう。要約するとこうだ、『シャーロックがまた事件を解決した』、それだけ。面白い事件なら詳しく述べることもあるが、25日に解決した事件はそれ程でもない、ありふれた事件だった。しかし他に書くこともないので短く書くことにした。さて、その五行にも満たないブログのせいで、26日の話題につながる。
「君は女性と付き合った事があるのか」
そろそろ深夜と言っても良いころ合いだったと思う。日付が変わっていたので、既に26日になっていた。私はその時、事件の解決を目の当たりにして今日の事件をブログに書こう、と決意してはいたが、頭の冴えとは裏腹に、身体は疲れを訴えていた。ソファに横たわったシャーロックはと言えば、解決してしまった事件には何の興味もないのか、私の問いかけにも「ああ」とか、「そうだね」とか、とにかく生返事ばかりだった。テーブルに置かれた、少し残った紅茶も冷えてしまっている。そろそろ寝ようか、とどちらかが言い出す直前の空気で、しかしこの質問に、シャーロックは生返事よりは少しだけ長い回答を寄越した。
「付き合った、の定義によるね」
そののち、欠伸。文字数は長いが、中身は生返事と殆ど変りがない。
「というと?」
ラップトップPCのモニタがちらつく。もう寝るべきだ、と身体が訴えているようだ。
「私が女性とデートしたりキスしたりセックスした事があるのか、と訊きたいのならYESだ」
「それ以外の『付き合う』の定義が君にはあるのか」
「しかし、相手に心を許したり、結婚を考えた事があるかといえばNOだ」
ソファに沈み込み、半分寝ているのであろうシャーロックの声は虚ろだ。ソファで寝るのは彼の本意ではないし、私の本意でもない(意外と寝辛いのだ、あのソファは)。そろそろ起こして、きちんと歯を磨いてから寝るように言わないといけない。
「君らしいな」
「そうか」
ラップトップを閉じて、残った紅茶を飲み干す。私の寝室は上の階にあり、ここを立ち去るのはいつも私が先だ。シャーロックのカップを覗き込むと、綺麗に飲み干してある。自分のカップを片づけるついでに、と伸ばした腕を掴まれた。
「長かったな」
「何が?危ないじゃないか、」
「その質問をするのが」
逆の右手に持っていた自分のカップが揺れる。カップに気を取られたふりは、多分シャーロックには気付かれているだろう。しかし私にはその振りが必要だった。
「どの質問だ?」
「最後の、いやそのひとつ前の質問か。『君は女性と付き合ったことがあるのか』」
「ああ……しかし長かったとは一体、」
「君はずっとその質問をしたがっていただろう、ジョン」
シャーロックはいつも遠慮なしに人の事を見つめる。私はこの癖に慣れなくていつも先に視線を外してしまうのだが、彼は一向気にしないようだ。
「別に、今ふと思いついたところだよ」
「違う。君は今日の事件の犯人と会ったときからその事が気になっていただろう。最初に彼女、リンジーと対応したあと、一度言いかけていたのでは?僕が彼女に『まるで好意があるように』取りいっているのをまじまじと見ていたからね。僕が女性に対して紳士的に振る舞える事にとても驚いていたようだから」
ああ、とても驚いたよ。何せ、いつもの『あからさまに愛想を振る』シャーロックではなくて、本当に彼女に好意を抱いているようだったのだから。そんな、『本当の人間』のようなシャーロックに、私はついぞお目にかかったことがなかったのだ。本当の人間のようなシャーロック。感情を表に出し、好意を露にするシャーロック。頭では理解していた、これが彼の作戦であることに。しかし、その仕草が余りにも自然で、そしてリンジーは魅力的だった。外見的な意味ではない。知性があり、相手の1から10を理解するような女性だった。シャーロックの隣に並んでいても遜色のない女性。犯罪者としても、切れ者ではあったが。
「彼女は自分を賢く見せる術に長けているようだが、些かその術に溺れているようだ」
心から彼女に興味がない様子で話すシャーロックは、おそらく彼女が今日着ていたスーツの色すら覚えていないだろう。明日になれば、きっと彼女の名前も脳内の「必要のないもの箱」に押し込められて一瞬で風化する。それで良い。それがいい。安堵と、一瞬の後の疑問。どうして?答えも一瞬。
「じゃあ言い方を変えよう。君は恋をした事があるのか」
「NO」
「そうか」
君も恋愛のひとつもしていれば、という言葉が出掛かった後、おそらく「君は恋愛のひとつやふたつもしてきているのに、未だにサラのベッドには上がらせてもらえないわけだ」などと帰ってくるのが容易に想像できたのでぐっと飲み込んだ。
そして、彼のその返答に安堵したことも一緒に飲み込んで忘れてしまいたかったのだが、残念ながらそう上手くは行かず、2月26日という日をいつまでも忘れられないでいる理由となった。この日から、私はシャーロックが恋愛をするのが気に入らないという、理解しがたい感情を自覚する羽目になったのだから。